悪性骨腫瘍   闘病の記


 それは歩行時の筋肉痛から始まった 
  
  
 
 
 2002(平成14)年 秋10月末頃から、右脚の脛(スネ)と脹脛(フクラハギ)に筋肉痛を感じるようになった。もともと筋肉体質であったため筋肉痛を度々起こし、そう気にはしなかった。秋の植替えシーズンで動き過ぎたかなと思う程度であった。
時期を同じくして、養母(糖尿病から腎不全となり、この10年は週に3日人工透析に通院し妻が介護していた)が部屋で転倒し、その打撲痛が原因で寝たきり状態となった。
 12月始め突然に湿ったドカ雪が降り積もり、数百はある山野草鉢、植木鉢などの一部が冬ごもり準備前だったので雪下で椿などが枝折れした。雪掻きをしながらの植木鉢の移動には手間取り、例年に比べ大分遅れてしまった。
 
 2003(平成15)年 正月を迎えても脚の痛みは治まらず単なる筋肉痛では無いと思い、1月6日に近くの整形外科医院を受診した。
老医師はレントゲン写真を見て、「 腫瘍で骨の一部が溶けているので、将来は人工骨で補強する必要があるだろう。良性なので痛みは春が来て暖かくなれば治る 」と言い、念のため血中のカルシュウム濃度を見るためにと血液検査をした。採血して4日後の結果は正常値で、「 活動性が無いから大丈夫 」と言って、筋肉痛用の塗り薬を渡された。
その時は取り敢えずホッとし、毎日朝晩の犬との散歩にはバンテリンを塗るか湿布薬を貼って、その上をサポーターで覆い、膝には強力なドイツ製のサポーターをつけて出かけた。
そして、この冬はスキーは出来ないので、思い切ってホームページの作成に挑戦することにした。

 3月になっても脚の痛みは増すばかりであったが、プライド高くオムツを拒否する養母の介護は二人係りでないと出来ない状態となった。やがて食事を取らなくなり、痴呆症状が出て数日後の4月6日朝、静かに自宅のベッドで息を引き取った。
行年92歳、老衰と診断されたあわただしい葬儀のなか、妻の労苦に感謝しつつ最後まで親の面倒を看れたことに安堵した。

 庭の池を掃除して水を張り、越冬用ポリ池から鯉と金魚を移す。冬季は家の中に取り込んでいた植木鉢も外に出し、雪囲いの中の鉢植えや、軒下や塀の脇で雪下に耐えた沢山の鉢植えをそれぞれの定位置に運び出す。春は植え替えの最適期なのだがそこまで手が回らない。犬の散歩と合わせて、身に着けている歩数計は1万5千歩前後となった。

 災厄は続いて、5月14日には実母が亡くなった。90歳、末期ガンであった。母には脚のことを知られずにすんだが、葬儀の席でも足を引きずり、駅の階段は手摺りにつかまってやっとの思いで昇り降りする状態であった。



養母の49日法要の後、5月29日に市内の立川総合病院外来を受診した。

 案の定、「右脚は骨折寸前なので絶対非苛重」と言われ、入院車椅子生活となった。

生検手術
で切取った腫瘍組織は新潟大学に送られ、良性か悪性か判定を待った。
右脚は固定して包帯を巻き(左の写真)、風呂にははいれず、ポリ袋を被せ膝上で接着テープで止めてシャワーを浴びる。移動は車椅子で、洗面やトイレでは一時的に左脚での片足立ちのみ。
(この状態は以後翌年2月21日まで続くことになった。)
入院・手術・点滴・CT・MRI、すべてが初体験であったが、医師も看護師も若くて熱心で優しかったし、6階の6人部屋は整形外科病棟なので患者の皆さんともすぐ仲良くなれて快適であった。

 13日後に、主治医の傳田先生(33歳?)から診断結果が伝えられた。
悪性腫瘍で、すぐに新潟大学付属病院の整形外科外来を受診するように言われ、最悪の予感が当たり愕然とした。 (・_・;)・・・
 6月12日朝、義弟(妻の弟)に頼んで新潟まで送ってもらう。(我が家には自動車が無く、息子は京都に、私の兄弟も近くに居ないので、以後何回も義弟の世話になり有難かった。)

大学病院で骨腫瘍専門の生越先生から診察を受け、「アダマンチノーマという珍しい悪性腫瘍の疑いが極めて強いと診断された。入院の手配をお願いして必要な諸検査を受けた。



 6月17日 新潟大学医学部付属病院転院・手術 


 病室は新築された12階建ての西館病棟4階(内科と整形外科混合)の416号室(4人部屋)。
設備も良く綺麗でホテルのような印象であった。
午後には担当して頂く医師4名の先生方が相次いで来室された。
主治医の生越 章 先生(年齢?意外にお若い?)からのお話。
 @血管造影剤を使って放射線撮影(CT)をする、
 AMRI 検査を再度やり、足首に近いところに腫瘍の根がないか調べる、
 B長期入院の覚悟が必要だ。
また、大病したことが無く、コリ、コブなどが無いことを確認された。
3名の先生方は川島、渡辺、栄森の若い医師達で、その後何かと気遣ってもらい、
短い交流の中でも大いに勇気づけられ、慰められ、病に負けぬ強い気持ちを与えられることとなった。
 
 6月18日、朝から24時間の正確蓄尿(抗癌剤投与に備え腎臓機能を調べる為)。
 6月19日、朝に採血。夕方には生越先生が、「 腫瘍部が下方にも有ってその部分を骨ごと切り取ると、足を残しても足首が曲がらず正座が出来なくなること。 膝下で切断し、義足を着けるほうが機能的には良いもしれないこと。
どちらが良いかは本人の心の問題だ。」と話された。
夜、妻に電話すると、転移や再発の心配が無いなら、思い切って切断の方が良いかもと・・。
9時消灯後も同室のK氏はイヤホーン使わずにテレビをつけ、さすがに寝つけなかった。

 入院中は毎日、4名で或いは個別に来室して回診、諸検査の予定や説明をされた。
先進医療を担う大学病院だから、医学者としての研究と、手術や外来診療もある中で、土日も休み無く多くの入院患者を診まわる。大変な激務であることを知った。
また、看護師の皆さんも7名のチームが主に私達の病室を担当し、3交代制でこれまた大変忙しい。入院が長かったので悩みや生き方を真剣に聞いてくれたり、細やかな配慮を受け、いつも明るい笑顔で気持ちを前向きにさせてもらった。
彼女らの優れた個性との出会いも貴重な体験となった。

 6月22日、日曜日なのに生越先生チームが来室され、
病棟の相談室でMRIの写真(立川病院から持参したコピー)とレントゲン写真(右の画像)を映して、説明された。
 @悪性腫瘍・アダマンチノーマの腫瘍部が下方にも広がっている疑いがあり、MRIを撮りなおせばはっきりする。
再発防止のため足首の骨まで切除するようになれば正座出来ず、足指は動くが完全には自由にならない。
 A足を残す手術(悪い部分の骨を切除し、左足の細い腓骨を切り取って移す)は8時間位で、合併症を起こす危険性もあり、術後も骨が完全に接合するまで時間がかかる。
 B膝下で切断するほうが簡単だが痛みが残る場合も有る。
義足は機能が良くなってきている。
AとBの選択は心(人生観)の問題だからと本人の決断を促された。
 
私は、「可能な限り足を残す手術を希望する。その為に足首の自由が制限されるようになっても仕方ない。機能の良し悪しよりも、有るか無いかの方が基本的に重要だから。足を残す手術が無理な場合には膝下での切断も納得する。」と思いを述べ、先生方も了解された。

 6月24日
、整形外科長の遠藤教授が回診に来られた。(毎週火曜と金曜は教授回診の日で、不在のときは助教授の先生方が来てくださった。) 午前中に、手術に備えて麻酔科外来を受診、文書を渡され問診で確認等受ける。
同じく形成外科外来も受診(皮膚移植も考えて)し手術内容を確認。
午後、造影剤を使ってMRI(磁気共鳴影像法。電磁波を使って縦・横・斜めと自由な角度から詳しい人体の断層像を描く画像診断法で、音が凄い)検査。
夕方に生越先生が来室し、血管造影検査(細部にわたる血管の走行を見るために行う)の説明をされ、同意書にサインする。
 6月25日、CT検査(コンピュータ断層撮影法、X線で人体の横断面輪切り像を描く)を受ける。 明日に備えて、ソ径部(脚のつけ根)の剃毛をする。

 6月26日
、前夜よく眠れず。昼食抜きで午後1時、血管造影検査のためにT字帯を着け病衣に着替え、点滴チューブと尿の管を通してベッドに寝たまま検査室へ移動した。撮影は1時間、準備など含めて約2時間の苦しい検査であった。
左脚のつけ根に局所麻酔して動脈にカテーテルを挿入し造影剤を注入する。脚が熱くなり、筋肉が硬直して意志に反して振動を起こした。撮影のため動かすなと言われ、歯を食いしばってガマンする (>_<)。
すでに私の右脚は腫瘍部が膨れ上がり、触られたり撮影のため脚の向きを変えたりするのが耐えがたく痛くなっていた。最後に検査台からベッドに移されるときも痛くて骨が折れるのではないかとさえ思った。 口の中がカラカラに乾いた。
 病室のベッドで夕食時まで安静にする。食欲はあるが、まだ動くことが出来ないので妻にスプーンで口に運んでもらう。夜10時には自力で体の向きを変えてよいといわれたが、右側には何とか寝返りできたが、右脚が痛くて左側には寝返りできない。右脚は鉛のように重く感じ、足を上げることが出来ない
一晩中仰向けに寝たままほとんど眠れなかった。
 翌27日、右脚に冷湿布を貼って貰うもベッドへの上がり降りが大変になった。午後に病棟の看護師と手術室の看護師から30日の手術について説明があり、麻酔科医師が回診に来室し「麻酔同意書」にサインする。

 6月28日
、妻も同席して、生越先生より手術の説明(インフォームドコンセント)を受け、「右脛骨悪性腫瘍(アダマンチノーマ)の切除、骨・皮膚の移植、創外固定術を行う」手術同意書にサインする。 説明の主な内容は以下の通り。
 @再発を防ぐため腫瘍部周辺の健全な骨部分も含めて切除する。
 A右脚腓骨を血管付きで移動させ、左脚腓骨を切り取って移植し、
  足首接合部分に腸骨(腰の骨)の一部を移植
する。
  足関節固定とし創外固定で補強
。 
 B筋力の低下・可動域の低下・知覚障害等が起こりうること。 
 C感染症、神経・血管等の損傷、肺炎・肺梗塞等の合併症が起こりうること。 
 D必要ならば皮膚移植や輸血をし、切断の必要な場合もあること。 
 E放射線や抗癌剤による治療を併用する場合もあること。 
 F大学病院の性格から、医学生の見学や、
  切除した腫瘍部を研究用に保存・利用すること等についての同意を求める。
などの内容で今までお話されてきたことの最終的な確認でもあった。
 
立川病院へ入院してからすでに1ヶ月、この間にも腫瘍は増殖し、痛みが強くなっていたので、手術への不安は無く、むしろ早く手術してアダマンチノーマを取り除いてほしいという期待の方が大きくなっていた。
 手術前日は日曜日だったが、堀田哲夫助教授(骨腫瘍専門チームの中心となる先生)が回診に来られて「 安心して明日の手術を待つよう 」話された。
体重57,0kg、体温36,4度、血圧115−68、 シャワーを浴びて静かに過ごす。

 6月30日(月曜日)手術当日、浣腸はしなくて良いとのこと。
6時起床、トイレ、洗面、髭剃りを済ませて、T字帯と病衣に着替える。7時30分基礎麻酔の注射を打つと緊張が取れ、眠くなった。
 朝8時、4人部屋の416号室から、ベッドに寝たまま手術室へ移動する。
手術時間は8時間と聞いていたが、準備・後処理・麻酔からの回復・手術結果後のレントゲン撮影(左の画像)などがあって、病室(ナースステーション脇の個室)に帰ってきたのは夜の8時半であった。 
私はこの12時間半の記憶が無く、もちろん痛みも苦痛もまったく感じる事が無かった
 手術室では、心電図や血圧計などの機器を取り付け、麻酔科医師が全身麻酔(点滴で静脈麻酔薬を入れる)と硬膜外麻酔(細い管を腰の脊髄の近くに入れて)を併用して行い、人工呼吸用のチューブを口から喉に入れる。
事前の説明通りの手術が順調に行われ、成功したと聞かされた。
右脚37cmと7cm、左脚26cm、左腰6cmを切開し、脛骨1本切除、腓骨2本と腸骨の一部を移植(接合部にはチタンのクギを2本ずつ計4本打ち、永久埋め込みとする)。輸血は準備していたが実際には行わず、皮膚移植も予定していたが実施する必要が無かったとのことであった。 まさに神業! 
手術の状況は、切除した腫瘍の写真なども妻に見せて生越先生が説明された。
(硬膜外麻酔の管は、その後2日間使用して鎮痛薬を注入し、術後の痛みをまったく感じることなく、有難く、感心した。)
 身体は動かせないが、足の方を見る。包帯につつまれた脚に創外固定の金具が付けられているが、足の指が見えて血色もよく、僅かだが自分の意志で動かせた。言いようの無い嬉しさがこみ上げて来た。
 
 この夜は翌朝まで心電図、点滴3種、鼻から喉へ管を入れ酸素吸入マスクをつける。また、血栓予防のため、足裏への刺激により深部静脈の血流をよくする機器を使用(数日間、エコノミークラス症候群予防)した。室温が28度に設定されており、一晩中熱くて汗が出て止まらず吐きっぽかった。
担当の看護師のMさんは4月に採用になったばかりの新人なので大変だったと思う。
私が落ち着けなかったので、妻は帰宅できず病室に一泊したが眠れなかったようだ。
 
 7月1日、早朝のバスでに帰宅してもらった。長岡の家では柴犬のナッチャンが朝になっても家族がいない不安から、2箇所で嘔吐していたそうだが、食事を与え、散歩と排泄をさせる。さらに植木鉢の水やりをしてから、午後には病室に来てもう一泊した。
毎日、犬の散歩、インコと鯉・金魚・熱帯魚の世話、数百鉢もある山野草・花木の水やりをしたうえで、
入院中は1日おきには新潟に来てくれた。 感謝!感謝!
 朝早くに、生越先生が来室し、「 顔色もよく元気そう 」と言い、機嫌よさそう。突然「 足を上げてみなさい 」と言って手を触れられたら、不思議に足を上にあげることが出来、自分でもビックリした。
この先生は神の手と魔法の言葉を使うのだろうかと? 
体温37.5度と微熱はあるが、昼からベッドで食事が出来るようになった。
 
 7月2日朝、次の患者さんのため個室を出て元の416号室へ移動。
排便時に体を支えるのに使うためベッドに鉄棒状のものが取り付けられたが、小さな便器でベッド上では出ようがない。

 7月3日、理学療法士のTさんがベッドサイドへ来てくれ、足指と膝を動かすリハビリを開始した。
渡辺医師が、左脚の包帯をはずし、縫合部を消毒して紙絆創膏をはり、血抜きのための管を取り去る。  腰の縫合部も消毒して管抜きをした。
抗生剤の点滴も終わり、尿の管もはずし、排尿はベッド上で尿瓶を使うことになった。
 
 7月4日、大森先生(膝が専門の先生)が回診され「寝ている時に右足首が直角になるように、当て物をしたほうが良い」とアドバイスされた。早速に看護師のHaさんがプラスチックの箱を用意してくれた。
手術後4日間便秘
が続いたので、下剤を処方してもらい夜眠る前に飲んだ。
 
 7月5日、朝から尿も出なくなり腹がパンパンに張ってきた。午後1時頃、Hoさん(看護師)に座薬の下剤を入れてもらって、漸く、ベッド上で便器に3回に分けて、尿も尿瓶に一杯出た。妻に処理してもらい、楽になった。 
設備が良くなり医療技術は日進月歩なのに、ベッドでの排便方法は原始的で時代遅れさを感じたのは私だけだろうか?

 7月7日
、手術後初めて車椅子に乗る許可が出る。看護師付きで一階のリハビリ室へ行く。 妻付きで車椅子用トイレへ移動、昼食も食堂で頂けた。素直にうれしい! 
夕方、生越先生から「検査結果を詳しく分析して抗癌剤不使用となれば、創外固定を付けて退院し、長岡の立川病院に通院しても良いだろう。」と言われた。
夜、左右1回ずつ寝返りした。
 
 7月8日、看護師Kさんから、頭髪を洗ってもらう。病室の洗面台で車椅子に座ったまま、さすがに上手い。9日ぶりで頭がスッキリし軽くなった。 1人で車椅子に乗ることが許可された。
 
 7月9日
体温36,4度と平熱に戻り、体重を測ったら55kg(創外固定1,5kg?を含む)であった(手術前は57kg)。 右脚のレントゲン撮影をする。 T字帯をやめてトランクスにはき替える。
Tシャツと特性半ズボン(創外固定が邪魔になるので右脇にファスナーを付けて、腰は紐で結ぶ)をはいて(右写真)毎日9時からリハビリをする。
 7月10日、右脚の一部(まだ腫れている部分)を残して抜糸した。
 7月11日、リハビリで松葉杖を使い始める。
 7月12日、院内の理髪店で頭髪をカットしてもらう。
親戚が見舞いに来たので、車椅子で12階のレストランに行く。
 7月14日、2週間ぶりでシャワーを浴びる(右脚はポリ袋で覆って)。
以後月曜と木曜の週2回がシャワーの日で、他の日は熱い蒸しタオル数本で身体拭きをする。 身体拭きだけでも気持ち良く、サッパリとする。
 7月17日、堀田先生 「右脚非荷重でリハビリし、車椅子・松葉杖の使用で退院できるようになるだろう。」
生越先生 「長期戦でやろう。将来的には自転車に乗ることも可能だろう。」
 
 7月18日
筋肉トレーニング用の錘(1,5kg)をナースステーションから借りる。
以後退院するまで、リハビリ室でやる筋トレと同量(約40分)を病室のベッドで夕方実施した。
読んでいた書物で出合った言葉2つ。
 @「 人間は希望がある限り若く、失望とともに老い朽ちる」 
 A「 ポレポレ」精神(アフリカ・マサイ族の生き方。ゆっくり・のんびりの意)
 
 7月20日、体重57,3kg、手術前の体重に回復した。(創外固定の目方分不足)
生越先生、「創外固定は3〜6ヶ月付ける必要がある。8月一杯で退院?その後は立川病院か新潟へ時々通院してもらうことになるだろう。」
堀田先生、「 松葉杖歩行の調子はどうか? 順調だね!」
 7月23日、右脚が筋肉痛で朝から足が上がらない。実は4日間ほど、筋トレを1セット増やしたのが原因らしい(何しろ、他にすることが無いので)。
痛みのある部分にアイスノンを当てる。午前にレントゲン検査があったが、画像確認したところ異常は無いと渡辺医師から知らされた。

 7月24日、リハビリで初めて、松葉杖を使っての階段昇降を練習する。
堀田先生、「 創外固定とは長い付き合いになるよ 
生越先生、「 ばい菌が入ると大変だから、創外固定のピンには手を触れぬように 」注意。 ピンと脚の接合部(左の写真)は週に1度は消毒・点検をし、ガーゼを張り替えている。
 7月28日、リハビリ状況を川島医師が見に来られた。
松葉杖での水平歩行は良好、階段歩行を4日後に見に来る事になった。
 7月29日、教授に代わって長谷川助教授(脊椎が専門?)が回診、「大変難しい手術をされたのだから、頑張ってね!」と声をかけられた。
 7月31日、堀田先生、「 右脚の指を、常に上に引っ張るように 」とアドバイス受ける。
足指は手術で神経が切断された為に、親指・人差し指・中指は下には曲がるが上に上げることが出来なくなっている。
 
 8月1日、川島医師がリハビリを見て、「 階段の下りが少し不安定だが一時帰宅は可能だろう 」と言われ、生越先生からは「 創外固定をはずす時期を見定めるのが難しい。
8日(金)午後から10日(日)に一時帰宅して良い
。」と伝えられた。

 私としては、薬物治療は受けていないので、入院していてもリハビリ以外は特にすることが無くなっていたこと。長岡の自宅に置いてきた沢山の動植物が心配なこと。
特に柴犬は突然主が居なくなったことからノイローゼ状態となり、代わって世話をする妻に抵抗したり、散歩に出ると私を一生懸命探しているようだという。脱毛がひどく、時々下痢をし、食欲が無くなってきたと妻から聞いていた。
また、夏の植木鉢の水やりは数が多くて妻に重労働を強いる状態で、1日も早く退院したいという気持ちが強くなっていた
 
 8月3日、
生越先生に、妻の要望もあり 「8日から10日の一時帰宅を、そのまま退院とさせて頂け無いか」お願いしてみたところ、それでも良いと許可された。
 8月6日、4階病棟内を松葉杖で歩行練習をする。
生越先生から、「 退院日時が8日の午後3時、立川病院外来を受診するのが11日で、傳田先生への紹介状をを用意する。」との確認を受ける。
 8月7日、生越先生、「 退院しても外は暑いから無理しない。転倒しないよう注意するように。」 
理学療法士のTさんが来室し、木製のMy松葉杖の長さを確認・調整してくれた。

 
8月8日
(金曜日)、暦の上では立秋、台風10号が接近中で蒸し暑かった。
 義弟が迎えに来てくれたので予定より早く2時30分に
退院。ナースステーションでは、安孫子看護師長はじめ多くの看護師の皆さんに笑顔で見送られ、関越自動車道で長岡へ。
6月17日の入院日から53日振りで外の空気を吸う。
高速道脇のススキが早くも穂をつけていたのに驚き、季節とともに変わり行く風景を眺めながら、長岡では東山墓地公園の小林家の墓に参ってから、4時半過ぎに自宅へ着いた。

[ 立川病院へ入院以来、73日間の対アダマンチノーマ前半戦の終了日 ]となる。

 インコのミータンも柴犬のナツ(本名:夏美、愛称:ナッチャン)も私を見て一瞬驚いた様子。
ミータンは間もなく私の手に乗り、肩にとまって喜ぶ仕草。
ナッチャンは痩せて元気なく、私の顔をしっかり見れず、不信感?手からガム(犬用)を受け取って食べたが、力なく、眠ろうとする気配(病気かもしれない)。
夕食も食器からでなく、妻の手の上から食べていた。
 初めての自宅でのシャワー、風呂場が狭い。少しの興奮と、夜にお茶がうまくて何杯も飲んだのと台風の影響もあってか、暑くて汗をかいて眠れなかった。

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 8月9日〜翌年2月5日まで(自宅療養181日) 


 自宅療養のための改造など。 
@狭く曲がりくねった廊下でも使える車椅子が介護用品店にあったのでレンタルする。
Aシャワーが無かったので、ホームセンターからバスポンプとシャワー口を買って自分で繋いで浴槽の湯でシャワーする。
B玄関・廊下の一部・トイレ・風呂場に握り棒を取り付ける。
Cトイレと風呂場の木製ドアをはずしてアコーデオンドアに付け替える。
D廊下と居室やトイレ間の段差解消する物を貼り付ける。 B〜Dは業者に依頼。

 
新潟大学医歯学総合病院(名称が変更になった)への外来受診は、この後、結果として9月4日、10月16日、12月11日、1月29日の4回受診した。移植した骨の着き具合と、肺への転移が無いかの確認のため右脚と胸部のレントゲン撮影をやり、生越先生から診断を受け、創外固定をはずす時期を判断していただく。
 
立川総合病院には、毎週1回月曜日に外来受診して、創外固定のネジピンと脚部の接合部に異常が無いか、確認してもらい消毒とガーゼの交換をお願いした。
生越先生から渡された紹介状とレントゲン写真を持参して、8月11日に傳田先生の診察を受け、9月末まで8回。傳田先生が柏崎、刈羽病院へ転勤されたので、10月からは主に内山先生に2月2日まで18回、計26回お世話になった。
歩いても10分ほどの距離を、毎回タクシーで通った。家に閉じこもる生活の中では、外の空気に触れる貴重な気分転換の時間となった。
 この間、4本のピンのうち
一番上の膝に近いピンからは常に黄色い汁が出ていた
検査をしてもらったが特に問題は無く、週に一度は私自身が消毒薬とガーゼ等用意して手当てをした。

 家の外回りには、松葉杖を使って右脚は突かずに歩く。腕力が必要で結構疲れる。
植木鉢や山野草の様子
を見回ると、枯れてしまったもの(その多くは春の植替えが出来なかった鉢)も多いが鉢植えの多くが生き残ってくれた。妻が一生懸命に水やりした結果である。
また、この年は世界的な異常気象で、ヨーロッパは熱波に襲われ、フランスでは数千人の死者が出るほどであったのに、日本は10年ぶりの冷夏であった。
涼しい夏が我が家の山野草や花木には幸いしたようだ。
 冷夏に続く秋は暑い日が多く、冬も暖冬で積雪が少なくて屋根雪下ろしの心配も無くて療養中の身には有難かった。
 水質管理が出来なかった温室の熱帯魚はほぼ全滅状態であった。辛うじてカージナルテトラやコリドラスなどの小型魚が入っていた90cmの水草水槽だけが生き延びていた。
 屋外にあるポリ容器のランチュウ(飼育が難しい金魚)も全滅したが、池の鯉と金魚はすべて元気だったのには驚いた。
 柴犬のナッチャンは、車椅子か松葉杖姿の私が、一緒に散歩が出来ないことを悟りつつ、主が家に帰って毎日居ることから精神の安定を取り戻し、食欲も出て元気を回復してきた。(右写真)
 退職後に、頼まれて町内会の仕事を始め、前年に会計監査を、この年は会計係を引受けていた。入院中は、やむをえず妻の手伝いを得て病室で処理した。
しかし年度内に歩けるかどうかも分からず、療養が長引く気配であったので、急遽、別に適任者を探してもらうべく町内会長にお願いし、了承を得た。(9月初
 お盆に帰省した長男から、二階のパソコンを下ろしてもらった。入院前から調子が悪くなったパソコンだが、2ヶ月以上締め切った部屋に放置され、さらに悪化して私のホームページさえ表示できなくなってしまった(内容がデジカメ画像中心のためなのかも?)。
ほかのホームページは見れたので、
インタ−ネットで骨腫瘍・アダマンチノーマを調べた悪性腫瘍としてはおとなしいタイプ(あまり転移しない?)で、発症例が少ないようだ。
歩いて買い物が出来ないので、インターネットでメーカーに直接注文し、カスタムメイドで17インチ液晶デスクトップパソコンを購入した(12月末)。
パソコンソフトや書籍もインターネットショッピングでカード支払いとなった。 
1月にはISDNから切り替えてADSLに加入した。
 自宅は築70余年の古家(現職中に改築したかったのだが、養母の大反対で諦めていた)で、夏は涼しいが冬は寒くて困りました。
加えて、五部屋ある二階には上がることができなくなった。 この際改築して、平屋で小さくても、冬暖かくトイレと風呂がゆったりできる、バリアフリーの家を作ることにした。
秋のうちに図面が出来、翌年春には工事に入り、夏には完成予定という計画が出来上がった。
(平成16年3月2日、正式契約)
 実は、生越先生にも話してなかったが、秋から冬へと寒くなる中で10数年ぶりで「」が出た。
痔核で痛みは無いが排便時の出血が続いた。
家が古い構造のままで、風呂場に脱衣場が無く、毎日のシャワーも、暖房の無い廊下の一部で裸になって右足にポリ袋をかぶせてテープで止めてから浴室に入る。
こうした寒さと車椅子の生活が痔の原因か?

 10月16日の大学病院外来受診。6月30日の手術から3ヵ月半が経過したので創外固定をはずしてもらえるかと期待していたが、「足首部の骨の着き具合がいまひとつ」ということで、継続して状態を見ることになる。

 次回の受診まで期間があったので、妻に手助けしてもらいながら、山野草の植替えをした。
姫リュウキンカ、サクラソウ、エビネ、山シャクヤク、シラネアオイ、雪割草、など放置すれば翌年には枯死する恐れのあるものだけを選んで。
並行して、アルミ棚(180cm2段)2台を屋内の廊下に入れ、雪下にしたくない鉢植えを並べた。花木の鉢物は、庭木の冬囲いに来た業者にお願いして、専用の囲いを作って鉢を移動してもらった。
池の鯉と金魚は池の上に木材を載せ、初めて外で越冬させてみた。

 
12月11日、越冬の準備を済ませ、いつでも入院手術が出来るという状態で臨んだ大学病院外来受診。私の意気込みとは裏腹に、生越先生は極めて慎重であった。
手術そのものは、時間もかからず難しくないといわれたが、
まだ、足首側の骨の着きに不安がある として、次の受診日を1月29日にし、その結果を診て入院ということになった。
手術後5ヶ月以上経過しており、まさかという思いもあったが、「
人生は待つこと」と思い直す。
 
 2004(平成16)年 1月29日、大学病院外来を受診。7ヶ月経過してようやく待ちに待った入院の手配にはいれた。 血液、尿、心電図、肺機能、などの諸検査を受ける。
 2月3日、麻酔科外来を受診する。



 創外固定を取り去る、ウレシイ入院 

               
 2月6日(金曜日)、新潟大学医歯学総合病院へ入院。前回入院時と同じ病棟で、病室も同じ416号室であった。懐かしい病室と看護師の皆さんとの再会であった。
今回の担当はベテランのHi看護師でメンバーは前回とは異なるチームだが、温かく熱心に世話して頂いた。
体重64kg(8月8日退院時58kgから、9月には62kg、さらに増えて)と増加した。
運動量が無い上に栄養も考えた結果である。 体温36,6度血圧120−70
夕方、手術室看護師(男性)が来室し、手術の説明をしてくれた。
堀田先生が若い目良・菊池両医師(メンバー交代。川島医師はアメリカへ留学、渡辺・栄森医師はそれぞれ違う分野の研修に移動?)と共に回診して、今回の手術について説明をされた。
 2月7日、妻も同席して、生越先生から「創外固定抜去、ギブス固定」手術の説明を受け、同意書にサインした。
 @全身麻酔を行い、足首の骨接合部にぐらつきが無ければ、創外固定の金属を抜き取る。
 A抜去後は、いずれプラスチック製の装具を付ける。
 B感染症や、手術直後の骨折、肺梗塞等は稀と考える。
 C元の脛骨に比べ、腓骨のみでは十分に強いとはいえない
   今後も骨折の可能性はあり、その都度対応する。
 Dどうしても移植骨の癒合が不十分なら、もう一度付け直す。(手術のやり直し?)
 夜、麻酔科の医師が回診に来られ、麻酔同意書にサインする。

 2月9日(月曜日)、手術日。T字帯と病衣に着替え、8時20分に車椅子で手術室へ移動。
酸素吸入で麻酔を入れられ、後は記憶も痛みも全くなし。回復室で呼び起こされるまであっという間の感じで、手術は15分位で成功したと伝えられた。
7ヶ月余で、固定金具が取り除かれた(左の画像)。
10時にはベッドに寝たまま病室に帰った。
鼻に酸素の管(夕方まで)、腕に点滴(抗生剤は4日間)、右脚はギブスを巻かれ脚枕の上に乗せられている。
指先が動き、脚も上下できる。足首のピン(創外固定の)跡がビリビリ(この痛みは翌日には解消)する。
左足には足裏を刺激して血流をよくする器械を取り付けられた(翌朝まで)。
11時過、堀田、生越、目良、菊池の4名の先生方が回診に来られ、「 午後には水を飲んでも良い、明日には車椅子も可能だろう。」と言われた。体温36,8度血圧120−70
 
 2月10日
、朝、採血・蒸しタオルで身体拭き。朝食はベッド上で、昼食は車椅子で移動して食堂でとる。
夕方松葉杖で廊下を歩くと、邪魔だった創外固定の金具が無くなって極めて快調。
 2月13日体重62,5kg。整形外科外来で堀田先生指導のもとで、業者(A義肢製作所)による装具の型取りをした。 その後堀田先生からギブスを巻き直して頂き、今までよりスリムになった。(右写真)
 2月17日、シャワーを浴びる。6年前に卒業生を送り出した学級担任の旧学年会(3年前まで勤務していた高校で最後に担任をした学年の会)の案内ハガキが届いた。知らせてなかったので病気の事を書き、退院できたら是非出席したいと手紙を書いた。
 2月19日、病棟の面談室で、生越先生からレントゲン写真3枚を映してもらい、それをデジカメで撮影した。
このホームページに載せる目的で、事務を通して病院長宛に情報開示申請書を提出して許可を得たうえでの事である。

 2月20日、整形外科外来で、業者のAさんが作った「装具」(左写真)付ける。健保が利くので市役所に提出する証明書を堀田先生に書いていただいた。
装具はプラスチック製で、型取りして作ったので足にぴったりで、当たる所も痛みも全く無かった。
外を歩くときは、装具を着けたまま(普通の靴は履けないので)介護用の靴を履く。
すぐにも退院して良いと言われ、もう少し入院してリハビリしたいと申し出てみたが、「 その必要は無い。退院して家に帰るのが一番のリハビリになる。」 と話された。
病室まで装具を付けて松葉杖で歩いて帰り、病棟内も歩いて回った。軽く楽に歩ける。
車椅子でなく、装具付・松葉杖付ではあるが9ヶ月ぶりに自分の足で歩ける。 思わず心の中で万歳 \(^o^)/!
午後、菊池医師が来室し、創外固定をはずしたピン跡を上下4箇所抜糸した。
明日から紙バンソコを貼って入浴が可能となった。
この日は一日中すばらしい晴天で、最高気温10度で平年比5度も高くて暖かかった。

 2月21日(土曜日)退院の日も晴天。 
体重62,2kg(今後の減量目標は56,5kgに
9時に生越先生が回診に来られたので、退院の挨拶をする。
義弟が迎えに来てくれ、一緒に12階で記念食事をしてから12時頃退院した。
丁度昼食時で配膳等で忙しく、O看護師1人にしか会えなかった。
入院期間が短かかったので、自宅に帰ると柴犬のナツも尾を振って喜びを表現。
待ち遠しかった入浴、8ヶ月振りで浴槽に首まで浸かる。身体の芯まで温まり、吹き出る汗とともに、幸せを噛み締めた (^^♪。

[ 後期入院16日、自宅療養含めて197日間の対アダマンチノーマ後半戦終了 ]

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2月22日以降〜リハビリ=自分との戦いが続く・・・ 


 2月22日、レンタルの車椅子は返却し、家の中と周囲の道路を松葉杖を使って右足を突いて歩く
毎朝夕自然の風と空気の匂いを感じながら・・・
 2月24日、退院を一区切りとして、病気見舞いを頂いた近所の皆さんと町内会役員のお宅には直接お礼に伺い、遠方の親戚などへは郵送で御礼をした。

 2月27日、大学病院整形外科外来を予約受診。松葉杖を使いながら、初めて高速バスに乗った。
乗車口のステップが高すぎ、乗り降りを慎重にした。
レントゲン撮影、堀田先生による画像診断と装具の点検をしていただき、「松葉杖なしでの歩行を許可」された。帰りは雪になり、バス停で20分余り待ったが、建物の軒下で吹雪の中でも不思議なほど寒さは感じなかった。

 2月28日、午前に、ナッチャンと一緒に散歩(前年の5月末以来のこと)、2人と1匹で町内を半周した。杖なしで少しビッコを引きながら、小幅で一歩ずつ、普段は妻を引っ張り気味に歩くナツは私をチラチラ見ながら速度を合わせてゆっくり歩く。
 夜6時、杖を持たずに「旧学年会」に出席。退職時の送別会以来、参加者9名で旧交を温めながら楽しいひと時を過した。思いがけず、退院祝いの花束まで用意されて恐縮し、有難い思いで一杯になった。
 2月29日は雨天で寒く外の散歩は出来ず、退院後も毎日続けている筋トレのみとなった。
この日から痔による出血が止まり、以後1ヶ月症状が無い。
入院中は暖かいので薬を使わなかったのに症状が軽くなり、退院して入浴と歩くことが出来るようになったら痔が治ったようだ。
 3月1日、雪、右足内側の土踏まずと外側の筋肉?が痛くて体重が掛けられず、松葉杖なしでは歩けなくなった
急に歩き過ぎたようで、1週間ほど自宅周辺の松葉杖歩行のみとする。
 3月8日、朝は自宅脇の歩道を、夕方には妻がリードを持つ犬散歩に同行し、松葉杖で歩く。
近くの栖吉川の土手2〜3kmを1時間位で回る(右の写真)。
このパターンを1週間続ける。
 装具の右足はかかとが高くなっており、左足の靴もかかとの高い靴(靴屋さんでは適当なのが無く、通販で6cmアップシューズを購入した)に替えたら歩き易くなった。
 3月15日、朝だけ松葉杖なしで自宅脇歩道を歩く
装具のみ付けて数10mを3〜6往復、その日の調子を見て加減し、以後継続している。
夕方の犬との散歩は松葉杖で同行する。
 また、歩きに伴い筋肉も付いてきたのだろう、装具は脚を締め付け過ぎる感じなので、外を歩く時のみ取り付けることにした。

 3月20日から、雨天以外は毎日少しずつ、妻に助けられながら、山草棚作りと鉢移動を始める。
屋内から外の棚へ、庭木の雪囲いや鉢植え専用の囲いの中から外へ、軒下・塀脇から棚へ。
鉢を持って歩いたり、ジョウロで水やりも少しずつ出来るようになって来た。
 すでに福寿草やコシノコバイモの花は終わり、開花中の雪割草が塀の上にずらりと並んだ。
鉢植えのカタクリが蕾みをあげ、ボケが開花し始めてきた。

     - - - --------------- - ここまで、 2004(平成16)年3月30日、記 
                 以後しばらく(2007年2月まで)このページの記述を休む- --

 
 4月3日
養母1周期・養父27回忌法要を営む。

 4月は5日から晴天が続き、気温の高い日が多く、脚の調子も良い。桜の開花も例年より早く、毎日夕方の犬散歩には松葉杖を突いて一緒に出かけ、福島江で花見ができた。
朝晩の鉢植えへの水やりも、妻の手助け無しでやれるようになり、歩数計は7千から1万歩を記録した。
朝起床時には、ベッド上で30〜40分かけてストレッチや体操をする。
筋肉トレーニング
は毎日の運動量で加減し、右足首にも500gのリストバンドを2本巻いて1kgまで負荷を掛けられるようになった。.
また、仰向けの姿勢で出来る機器を使ってサイクル運動を朝晩15分ずつ続けた。
4月14日には体重が漸く60kgまで減量(2,2kg)できた。

 4月15日自宅改築の為の工事が始まる。
引越しせずに今の家で生活しながら、家の一部を壊し、畑と花壇を潰して平屋を建てる。大型のユンボが入って僅か3日間で家の一部を壊し、池周りの岩石を堀り上げて整地した。
大きな庭木を10本伐採(造園業者に依頼)し、何とか鉢植えは自分で移動したが、私の脚では準備が間に合わない。
移植したかった畑の作物(アスパラガス、ニラ、アシタバ、食用菊、イチゴなどの宿根類)と花壇の草花(シラン、桔梗、ホタルブクロ、霧ケ峰すずらん、各種球根類など)は全く手つかずで整地されてしまった。
池の鯉7匹は貰い手があって助かった。
 この日夕方、犬との散歩を私一人で松葉杖なしで試みる。
1時間余り、柴犬のナツが私の歩きに合わせてくれるので、難なく出来た。
以後、朝は妻が犬と散歩に出て、私はジョウロで鉢に水遣りをし、夕方は妻が家事に専念し、私は犬と散歩に出て、その後に鉢の水やりをするパターンとなった。
 4月20日、前日が雨のため水遣り不要なので、朝の犬散歩に松葉杖無しで同行してみた。
気温が低く脚が痛い。普通1時間余のコースを小幅でゆっくり2時間ほど掛けて歩いた。朝だけで歩数計は5千歩を示し無理があった。
シラネアオイやタツタソウは花が終わり、戸隠ショウマ・桜草・梅花唐松草が開花中。各種の椿が次々花開き、エビネ達も花茎を上げてきた。

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 自宅改築工事 ⇒ 新居への引越し 

 
 2004年4月21日、地鎮祭。 午後から基礎工事が始まった。
地震に強いベタ基礎とし、24時間換気システムで床下にも空気を循環させる方式とした。
 4月23日、2ヶ月ぶりで大学病院整形外科外来受診。経過良好。
 4月30日〜5月3日、連休に長男が京都から帰省し、夕方の犬散歩を一緒にした。気分良く距離を伸ばしたら脚に痛みが出る。
 5月12日上棟式が行われた。 5月の長岡の降水量は平年の2倍となり異常な気配。
 6月8日、入梅。 雨天と低温は、散歩時の脚痛を引き起こし、歩数計で4千〜5千歩と少な目となった。 体重58,5kg。

 6月18日、新大病院外来受診の日。
高速バスを降りて歩き初め、脚が痛い。
室内用の足底装具を作るため右脚の足首から下を型取りした。
 
 6月20日、初めて装具を着けないで屋外を歩く
左足首に1、5kgの錘、右足首には500gのベルトを2本巻きつけて交互に脚上げ筋トレを10分ずつ1日2回やる。
 6月25日、新大病院外来受診。
室内用の足底装具が出来たので取り付けてみる。
しかし結果的に、この装具はあまり使われることが無かった。
脚の痛みのため、堀田先生から薬を2種類処方していただいた
朝と夕食後に痛み止め飲み薬を、入浴後に湿布薬を貼る。以後毎日使用することになった。

 6月30日、外壁工事始まる。夕方の犬との散歩と鉢の水遣り時だけ装具をつけ、他は装具無しで行動する。
 
 7月5日、台風崩れの低気圧が日本海を通過し、フェーンの熱風が襲い38、3℃の猛暑となる。
7月の長岡は、35℃以上が5日間もあり、平均気温が高かった。
関係があるのかアメリカシロヒトリが大発生して、木や草の葉が食害され、毎日虫退治で大変でした。
 
 7月13日、前夜からの強い雨で記録的豪雨(7、13水害)となり、我が家でも熱帯魚の温室が約10cm程浸水(今までに無いことであった)した。
庭の鉢も一時水没し流されたものもあった。

 7月19日、海の日。建設会社の若衆4人に頼んで、仏壇・冷蔵庫・ベッド・ソファー・ガラス付き書棚など大型家具を2時間余りで引っ越した。旧木造母屋から不要なものは出来るだけ処分し、パソコン・衣類・台所用品など私と妻で運べるものを2日がかりで運んで、まだ未完成の新居に移った
 7月22日、新大病院外来を受診し、痛み止め薬の処方箋を戴いた。
 7月23日〜28日旧木造母屋を取り壊し
29日からは鉄骨ブロック棟(1階は物置、自転車・犬のサークル置き場と熱帯魚飼育温室、2階は長男が中高生時使った部屋と私の書斎兼本置き場で築26年)の解体が行われ、
 
8月5日に解体処理作業がすべて終了
した。
その間、24日(土)〜25日(日)の解体業者が休みの日に妻と一緒に鉄骨ブロック棟の1階から園芸用土や水槽など、2階から書棚と本を運び出して新居の書庫に納める。
敷地内で移動距離は短いのだが、書棚から取り出した書物の両と重さは大変なもの
であった。
 
時間に余裕無く、完全に無理しすぎて疲労困憊し、体重57kgと減量なる。
 7月28日、鉢の水やりと花の写真撮影だけなのに、右脚は筋肉痛、特に脹脛(ふくらはぎ)が痛い。



 疲労骨折再々入院 

 8月1日、最高気温37、2℃。熱い。体重56、7kg。水遣り、犬散歩ともに装具を付けたが脚が痛い。脹脛、脛(すね)ともに非常に痛い。
翌日には犬との散歩も出来なくなり、更に水遣りも出来ない状態で、痛み止め薬も効かなくなり今迄で最悪(・_・;)となる。
 8月6日、早朝ベッド上でポキンと音がして右脚に激痛が走る。動かすと痛いが、両手で押さえてジットしていると間もなく痛みが治まる。妻は時々就寝中に足が攣(つ)る事があるので、疲れから筋肉が痙攣したのかと思ったのである。
右脚を着かなくても立ち上がると痛いので寝ていたが、トイレ行きが尻着き両手歩き?でやっとの思いであった(*_*;。夕方またポキンと音がした。
 
 8月7日(土)朝湿布薬を貼り替えようとした所、脚がダラリと曲がった。骨折だ!(+_+) すぐに脹脛側にはプラスチック装具を当て、脛側には装具が入らなくなっていた(腫れた)のでボール紙を当てて紐で縛って固定した。
診療を受けていた立川病院整形外科は運悪く休診日で、同じく市内の中央総合病院を紹介された。
午前10時、レントゲン撮影をして、大川医師より移植骨が2本とも折れていることを確認され、
翌週の10日火曜日(腫瘍外来の日)に大学病院にいくよう紹介状を戴いた。夕方強い雷雨となった。
この間、装具で固定していると痛みは無く、松葉杖と左脚で歩けるが1日中家にいる。
以後、朝晩の犬との散歩も植木鉢の水遣りも、また、すべて妻にやってもらうことになってしまい申し訳なく思う。
新大病院整形外科医局に電話して、生越先生へのメモ連絡をお願いした。

 8月10日、義弟の乗用車で送ってもらい、新潟大学医歯学総合病院整形外科外来を受診する。レントゲン撮影して生越先生の診察を受ける。
移植腓骨の疲労骨折。「こんな場合は日曜日でも大学病院に来なさい。雨降って、地固まるの言葉のように、しかも丈夫になるよ。」と言われた。
前2回と同じ西館病棟407号室に入院(診療計画書では2〜3週間の予定)。
病室が違ったこともあって、担当の看護師さんの顔ぶれは代わったが、お世話になった皆さんに出会えて懐かしかった。 体温36、6℃・血圧118−65。
 午後2時40分頃から生越先生と若い星野医師(女性)とで、病棟の処置室にて膝上までギプスを巻いて固定する。
すぐにレントゲン撮影して、折れた2本の移植腓骨の接合部を確認。「 100点満点ではないので、少し加工します 」と言われ、ギプスの一部に切れ目を入れて微調整し、再度レントゲン撮影をして4時20分頃に終了した。
 8月11日、9時30分、生越先生が星野・今井医師と一緒に回診に来られ
「@1ヶ月くらいギプスをしたほうが良いだろう。その後は装具に切り替える。通院できるかな?
Aこれでうまくいかない時は、腰骨などを移植して補強することになる」と言われた。
10時30分生越先生と星野医師が、ギプスのまま右脚が突けるようにギプスの足底に追加加工を施してくれた。

 8月12日、11時からリハビリ開始、転勤したTさんに代わって新人の男性理学療法士Oさんが担当。足の筋力テストを受け、平行棒を使って右脚3分の1荷重の感覚をつかむ。
体重57kgで17kg位荷重するようにして、松葉杖を使って歩く
午後に右脚をビニール袋で膝上まで覆ってシャワーを使う。1週間ぶりで気分爽快。
 8月13日アテネオリンピック開会。午後リハビリ、3分の1荷重での平面歩行に加えて階段昇降を繰り返す。 今まで欠くことが無かったお盆の墓参りを妻と長男夫婦に託した。

 8月14日、生越先生来室、「2週間で退院し、外来で2〜3週間様子を見よう。その間にギプスが緩んできたら再ギプスする。」
 8月16日(月曜)、朝8時過ぎに両先生が回診。堀田先生には「脚を使い過ぎましたね。骨折箇所がしかも強く丈夫になるから・・」と励まされ、生越先生からは「退院は今週一杯で、或いは水曜日頃でも良いかな。」といわれた。
その後のリハビリで、「松葉杖歩行は平面・階段ともに問題なく、退院が可能」と判断された。
 8月17日、午前リハビリ、午後レントゲン撮影。4時頃生越先生が来室し「病室が不足して困っているので、明日午前中に退院してほしい」といわれ、了解する
 
 8月18日、リハビリ後、木村先生(リハビリ部門の医師)の問診を受け、今は治療中なので無理だが、
脚の状態が固定したら、障害者手帳の申請をしたらどうかと説明を受けた。
堀田・生越両先生と若い医師2名が来室し、「 ギプスは40日位、9月20日頃まで着ける事になるでしょう。次は8月31日(火)腫瘍外来を受診するように。」と話され、退院の挨拶をした。
 11時過ぎ、婦長(看護師長)さんに挨拶して病棟を後にし、2〜3週間の入院予定であったが急遽9日目で退院となった。
 8月19日以降、自宅療養中、犬との散歩も出来ないので、室内犬ではない柴犬の夏美を毎日一定時間私がソファーで抱っこして、オリンピック競技などを一緒に見るようになった。

 改築工事は、外構工事として門柱とブロック塀作りがほぼ終った。
門から玄関までの通路と、西側の物置にある裏玄関から自転車や車椅子が出られるように玄関前までスロープをつけるコンクリート工事も27日までに終了。
 8月29日アテネオリンピック閉会。日本はメダル37個で史上最多記録なる。

 8月31日、新大病院外来受診の日。義弟も事業が多忙なので、今回からタクシーを頼む(次回9月14日、10月1日と10日の計4回)ことにした。台風16号の影響で風雨が一時強かったが、高速道路を使い往復とも約1時間ほどで代金は3万5千円であった。
レントゲン撮影の結果、「骨の接合は良好」との診断であった。

 9月3日、南側に廂(ひさし)をつける工事が完了する。
 9月10日、玄関前のタイル貼りと廂下のコンクリート上塗りが終了し、ようやく新居が完成した。
玄関には幅120cmと90cmの水槽をセットしたかったのだが、とりあえず水草中心の60cm水槽でガマン。
 9月19日、長男が京都の女性と結婚
(10月31日に式を予定)。
当人と両親6名が東京で会食する日であったが、失礼ながら私は行くことが出来ず、妻に代表して上京してもらった。

 10月1日、 新大病院外来受診。業者のAさんがギプスを取り去って、新しい装具を作るための型取りをし、その後、堀田先生がギプスを膝下から巻き直してくれた。
膝が曲げられると楽になるのでありがたかった。しかし翌日には膝上の筋肉が熱く痛くなり、あわてて冷湿布。 動かすのは少しずつ!!
 10月7日、新大病院外来を受診し、完成した新しい装具を着ける。
これで完全にギプスとサヨナラです。 以前のものと少し違い足首部分にネジがついていて角度の微調整が出来、生越先生(祝!助教授に昇進)にも診てもらい、装具を着けたままでレントゲン撮影をしてチェックした。
タクシーでの通院が終了し、自宅でゆったりと入る風呂の良さを再々確認。(^o^)
8月10日から59日間ギプスを巻かれた脚は、垢(あか)を2〜3日かけて洗い流すことになった。
翌日から膝を動かし筋トレを少しずつ始める。
 10月12日、松葉杖を突きながらも夕方の犬散歩に同行。理髪店で散髪してスッキリする。
 10月17日、県知事選挙も松葉杖使って投票所へ。
 10月20日、台風23号により平成最大の被害が出る。長岡でも1日中風雨強く犬散歩も出来なかった。 この年6月から計10個もの大風が日本列島に上陸(過去最多)した。

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 自然災害 (大地震・豪雪) を乗り越えて 


 2004年10月23日、夕食前の5時56分。
 新潟県中越地方を震源としてM6、8の地震が発生。
 川口が震度7小千谷が震度6強長岡は震度6弱であった。
その時妻は夕食の準備中で、私は居間のソファーで柴犬の夏美を抱いてテレビを見ていました。
縦揺れを交えて物凄い横揺れが続き、出来たばかりの家なのにブッ壊れてしまう!と本当に思いました。二人と一匹が恐怖の中で身動き出来ない状態でした。(@_@;)
やや落ち着いてから、装具を着けて屋外へ出て近所の皆さんとしばらく一緒にいました。寒さが身に応えて家に入るも、3時間ほど寝室のベッドで横になる以外は居間のソファーで二人一匹眠れない夜を過ごしました。

 揺れの大きい割には家内の被害は少なく、玄関の熱帯魚水槽一つがガラスが割れて水と魚が流れ出たこと、仏壇の仏具と神棚の置物が畳に散乱し、花瓶が倒れて灰と水が撒かれたこと位でした。
掛け時計は止まり、テレビやパソコンは移動はしたが破損は無く、寝室に置いたガラス戸付き書棚はそのままで、居間の家具も異常なかった。書庫では書棚が一部移動したが、本の散乱もありません。
改築時に家具を必要最小限にし不用品をすべて処分したこと、二階が無いことが被害を少なくしたようです。もしも改築前で、物が沢山あった古家でこの地震を受けたとしたら大変な状態が想像されました。
敷地内では庭の灯篭が一基倒れブロック塀の一部にひびや破損が出た程度です。
市内でも震源から比較的離れた私の町内(旧市街北部)では、傾いた電柱・カワラが破損した屋根・塀や門柱が倒れた所があり、部屋の壁や家具・ガラスや食器などが破損散乱した被害が多く、家屋の半壊以上は稀のようでした。
 小林家の墓地は長岡市南東部の丘陵にあり、周辺は道路家屋とも被害が多く出た地域です。後で分かったのですが、墓が倒れ、土台も一部崩れて大きな被害を受け、その復旧には100万円以上の費用がかかる事になりました。
 町内会から食料の配布などもありましたが、電気も水道も止まることなく、ガスは震度4以上でメーターが自動停止しましたが、復旧の措置をすれば直ぐに使えるようになり、普通に生活が出来ました。

 余震
が多く、10月末までに身体に感じる地震は約600回(うち震度7が1回、震度6が4回、震度5が10回、震度4が30回)もありました。
発生から1ヶ月間には余震800回、死者40名、避難継続者は6500人(ピーク時10月26日には10万3000人余)となりました。

 10月26日、脱線した上越新幹線は復旧の見込みが立たず、北陸線も特急が全休で交通マヒが続く。夜、大阪の長男に電話する。結婚式に出席予定で準備していた妻と、義弟(私の代わりをお願いしていた)の式参加は無理であること、私がこちらの現状とお詫び・祝いとお礼のメッセージをメールで送ることにした。
翌日10時40分頃、震度5強(広神では6弱)の強い余震が来た。
 10月31日長男結婚式、京都・比叡山のホテルにて。
その様子は後日ビデオと写真で拝見する事となった。

 11月は暖かく、記録的高温となった。まだ片付いていなかった花木や山野草の鉢と棚類を、脚の具合を見ながら少しずつ移動した。 体重57、8kg。
 12月6日、東山に初雪が降り、鋸山が白くなった。
 12月8日、例年より遅れたが、造園業者が来て冬囲いをし、冬ごもりの準備がととのった。

 12月10日、高速バスを利用して、新大病院外来を受診。レントゲン撮影の結果、堀田先生の診断は「 折れた2本の移植骨のうち、血管付きで移植した腓骨は完全に活着している。左脚から切り取って移植した腓骨の骨折部が着き具合が良くない。 装具の使用を続けて、次の外来診察日まで様子を見よう。」であった。
 12月18日、三脚を持って午後の散歩について行き、途中の愛宕公園で記念写真(右)。
 12月22〜24日、雪が降るので、デジカメ写真を何枚も使って年賀状作りに専念した。住所録も整備し直して印刷投函する。
 12月23日、震度4(ガス自動停止)、25日震度3、
28日震度3(震源の守門は5弱)と余震が続いた。
26〜28日も雪やみぞれが降ったり止んだり。
 12月31日、雪1日中降り積もる(最高気温-0,2℃)。
近くの神明神社詣りは妻と長男に頼む。

 2005(平成17)年、元旦、2日とも雪が降ったりやんだりで積雪22cm。犬は喜び庭駆け巡った。
私は装具を着けるとゴム長靴が履けないので、雪道の外歩きが出来ません。動かないので体重が58、4kgとなる。

 1月3日、晴れ。帰省していた長男夫婦が帰る。
短くも楽しいひと時が過ぎ、家の中が静まった。

 1月9〜12日、降雪が続き、60cmの積雪となる。

 1月21日、新大病院外来受診の日。
レントゲン待ちの患者が少なくてスムースに受診。
骨折部の着き良く、順調な経過(左写真)であった。
私のような腓骨移植者の大部分(特に子供)は一度は骨折しているのが現状とのこと。
しかし、「再手術するケースは無いので心配しないように」と堀田先生が話された。

 1月25〜29日、天候も良く、いったん殆んどの雪が消えたので、装具を着けて外歩きした。
犬散歩について歩き、観賞魚店へ出かけたり、離れたスーパーやホームセンターへの買い物にも同行し、歩数計が1万歩を越す日もあった。
また、足の内側に僅かではあるが骨の突き出しが感じられ、プラスチック装具の一部と当たって痛くなった。そこで装具の底部に底敷き皮1枚にボール紙1枚を加えて入れ、プラスチックの一部を少し削って当たりが無くなるように調整した。

 1月30日、雪が本格的に降り出した。積雪36cm。装具は着けずに、家の中で腹筋やサイクル運動、足首に錘をつけて筋肉トレーニングをする。
 1月31日、最高気温が1、0℃と寒く、昼間から雪が降り積もり、積雪77cmとなる。
 2月1日大雪警報が出る。最高気温が0、2℃にしか上がらず、夕方6時までの24時間で91cmも積った昭和61年以来19年ぶりの大雪と発表され、長岡の積雪153cm(小出や十日町は300cm前後)となった。
大雪の中、直江津に住む友人A君(最近会う機会も無かったが、大学時代4年間専攻も同じ)が舌癌で逝った。 
61歳、無念さを思い合掌。
 2月2日、曇り一時晴れ、大雪警報は解除された。
朝、装具を着けて玄関から門までの雪掘りをする。
 2月3日、曇り一時雪、朝、道路除雪のブルトーザーが雪氷塊を門前に押し付けていったので、出入り口を開けるのが大変。昼、妻が廂の雪下ろしをして、私が下にいてその雪を処理をする。
 2月4〜5日、19年ぶりに大屋根の雪下ろしをする。全部ではなく屋根の周囲三分の一位を落とした。
私も長靴は履けないのだが、装具に介護靴を履いた状態で、慎重に屋根に上がって足場を定めながら除雪した。
 この冬は、手術と足関節が動かないことが原因か、右脚の血流が悪くなって小指の外側が霜焼けになり膨れて痛痒い。
また外反母趾のため人差し指の親指側が痛くなり、スポンジ状の指間パッドを挟む。厚い靴下とレッグウォーマーを着け、指や踵にはクリームを塗ってマッサージする。
(起床時と入浴中には両足のすべての指を上下に動かす運動は365日やっているのだが・・)
 2月23日に春1番、25日に春2番の風、気温も8℃に上がった。
しかし、月末から3月5日頃までは気温が低く、時々雪。3月13〜14日は気温が0、5℃までしか上がらず、30cmほどの積雪もあった。

 3月18日、新大病院外来受診。経過は順調で、装具を着けずに外歩きすることを許可される
次の受診は3ヵ月後で良いだろうと堀田先生に言われる。
以後、室内でだけ使っていた松葉杖も使わないことにした。

 3月20日〜31日、家の東側と南側の道路に除雪ブルが積んでいった雪氷塊をスコップで割って除雪する。 毎日、少しずつの楽しい重労働。歩数計は5千〜8千歩で、体重57、7kg.となる。
 例年より少し遅れて、福寿草を初めとする春の草花やツバキの一部が開花し花写真の撮影をする。
サギソウ・トキソウ・サワランなどミズゴケ植えの鉢を植え替え、忙しく楽しい季節を迎えた。



 整備する  

  
 4月に入って、ポリ池をセットして金魚を外に移す。
冬囲いの板を一部はずして、中の植木鉢を取り出して日に当て水やりをする。アルミの棚板をセットし、鉢を移動し並べる
 4月11日、ようやく造園業者が来て冬囲いを取る。
以後月末まで植え替えに追われる。1日に6千〜1万歩位、体重57、1kgとなる。
 4月15日頃から犬散歩で巡る公園(神明・愛宕・琴平など)の桜が開花し始める。19日に少し離れている福島江(用水路)の桜(右上写真)を見に行く。
 5月1日〜6日、晴天が続き、家の南側にを作る。
今年はまず2畝作る。業者が入れた山の赤土は雪の重みで固まって、掘り起こすのに苦労しました。
コンポスト(プラスチック製生ゴミ処理容器)で作った自家製堆肥を入れる。
アスパラガス2株・食用菊2種・キュウリ・ナス・トマト・ピーマン・シシトウ・青シソ各1株を植え付けた。
 畑の周りには、鉢植えで育てていたリンゴ・洋ナシ・梅・プラムなどの果樹やムクゲ・大山れんげ・モクレンなどの花木を自分で移植した。

 5月20日〜31日、造園業者に頼み、日曜は休んで10日間、造園士4名で庭の作り変えをする。
トラックで用土を搬入し、庭木の一部を移植した。
クレーン車を使って庭石の移動や配置をする。岩を配して池作り、給排水の設備を施してコンクリートを打つ。
新たに入れたものは、池周りの黒松1本とツツジ4株、他に鳥海石・富士岩など数個の岩、雪見灯篭1基と敷石30枚を庭に追加した。
新しく出来た池には24時間渋抜き薬を投入して、一度水を全部入れ替えて、濾過機で水を循環する。 6月5日、池に金魚と幼鯉を放す。

 骨折・地震・大雪の難を挟んで1ヵ年余り。住宅の改築から外構・庭の整備が一通り終了。
 
南側、玄関前通路脇  東側の主庭、奥に池     新しい池

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   免疫力低下?- 体調異変? - 新た 病・「潰瘍性大腸炎」・・・
 

  
 4月末頃から、断続的に下痢症状が始まっていた。
しかし春は鉢植えの植え替え作業と次々に開花する花の写真撮影とに追われ、5月は畑作りや庭の作り直しで結構忙しく過ぎました。
6月になると下痢状便が相当に改善されたと感じました。平均1万歩は歩き、体重56kg位です。

 6月16日、新大病院整形外科外来を受診。レントゲン撮影で脚に異常は無し。
堀田先生より「障害者証明」の書類をを書いていただき、後日、長岡市役所の福祉課に「障害者手帳」の申請をする。(7月8日に5級で交付された)
6月下旬、正露丸を買って服用するも効果なく、下痢が続く。
 7月には、朝のゴロゴロ・グーグーという腹鳴りが収まって、水状の便も無くなった。
家周りや庭の除草に精を出す。
8月、家の北側に通路として丸い飛石(御影石コメリよりインターネットで購入)を配置する。
8月末には下痢症状が治まり、自転車に乗って(2003年5月末以来2年3ヶ月ぶりで)ホームセンターやスーパー、熱帯魚店にも行ける様になった。

 2005年9月3日(除草した翌日)、左首に痛みが出て翌日には肩痛から手の痺れまで感じるようになり、寝返りも打てない状態になった。
 9月6日、我慢できず自宅に近い立川病院整形外科を受診した。
新患なので午後2時過ぎてようやく診察を受ける。MRIの予約をして、痛み止めの薬を処方された。
翌日になっても肩痛は変わらず、犬散歩にも付いていけない状態であった。
 9月13日、午後4時からMRI検査を受ける。身体を固定し動けないので、痛みのため非常に苦しくて時間は20分位だったが我慢の限界という感じであった。
翌14日、整形外科外来を予約受診する。MRIの結果から頚椎の椎間板ヘルニア」(首の骨の間にある椎間板の一部がはみ出し神経根を圧迫する) と診断された。
痛み止め薬で様子を見、悪化すれば手術しかないとのことであった。
9月17日、発熱・腹痛は無いが出血を伴って日に4回ほどの下痢が続くようになり、痛み止め薬の服用を止めて、市販の下痢止め薬を飲んでみる。

 9月22日、新大病院外来受診。堀田先生に首のヘルニアのこと、胃腸の具合を話す。
私の希望する近くの立川病院内科への紹介状を書いていただいた。
 9月26日立川病院消化器内科を受診する。検査のため血液と便の採取をし、毎日1本飲んでいた牛乳を止め、毎食後、粉末の処方薬を飲むよう指示(主治医は20才代女性医師)された。
月末には肩痛・腕の痺れを余り感じなくなり、夜仰向けで眠れて、左側を下にしても痺れが少なくなってきた。
 10月8日、立川病院消化器内科を受診。血液検査・便検査の結果はともに異常が無し
しかし処方薬は効かず下痢症状は治まらない。
最終検査として、初めての胃カメラ検査と大腸内視鏡検査の予約をする。

 10月19日、立川病院へ1泊の検査入院をする。
午前10時40分〜11時10分頃まで、口腔麻酔と上腕筋肉注射をしてから胃カメラ検査
思ったほどの苦痛は無く検査を受け、胃には異常が認められずポリープも無かった
病室が空かなかったので、いったん帰宅して昼食をとり、2時30分過ぎに入院。
東館7階のB777室へ入る。その時の計測値は身長155、3cm(右脚が移植手術の際2cm短くなっているので身長も少し縮む)、体重56kg、体温36、7℃、血圧106−60であった。
病衣に着替え、看護師から問診と検査についての説明を受ける。
5時45分頃夕食が病室に配られた。 @軟らかいご飯、A卵巻き、Bサトイモと肉の煮物、C梅肉漬物の4品で味噌汁は無し。
6時過ぎに手術担当医(主治医とは別の医師)が来室して私の腸の状況を聞き、明日の検査を説明してくれた。
夜9時前に消化管蠕動促進薬(ガスモチン)下剤(ラキソベロン)をコップの水に溶かして飲む。
翌20日早朝4時から下剤ニフレック(腸管洗浄液)2Lを2時間かけて飲む
飲みにくいが大腸の中を空っぽにする必要があるから仕方ない。
1L以上飲んだ5時20分頃、固形便が出る。5時40分頃液状下痢便が出る。
6時10分、6時30分共に液状便(昆布や人参など有形物も含まれていた)が出る。7時40分、色は薄くなったが濁って沈殿物もあるので、「これでは検査できない」と見に来た看護師に言われ、1回目の浣腸をかける。 8時過ぎに500ml浣腸剤を2本入れたが、まだ茶色になって駄目。 9時過ぎに3回目の浣腸でようやく透明に近い水が出てOKとなる。
検査前の、この腸内を空にするためだけで心身ともに疲れてしまった。
病室から検査室へ移動して11時〜11時30分位の間、大腸内視鏡検査を受ける。初めての体験で緊張したせいもあったのか、今度は大腸カメラがスムースには入らない
医師と検査技師2人がかりで腹部を押したり引っ張ったり捻ったりという感じで苦痛であった。
モニターを自分でも見ることができたが、大腸の末端10cm位の所に炎症があり、生検のため粘膜組織を5箇所ほど切り取った。
癌もポリープも無かったことに安堵しつつ、組織検査の結果を待つことになった。
検査後、廊下のソファーでカルテ記入待ちの間に、腹が張って苦しくなりトイレに駆け込む。空気がすごく沢山出て楽になった。大腸カメラの挿入時空気を一緒に送り込むので、オナラを出すように言われたのだが、うまく出せなかったためです。

 10月29日、立川病院消化器内科を受診。大腸内視鏡検査と組織検査の結果から「潰瘍性大腸炎」と診断された。外来で様子を見て、悪化したら入院といわれた。 ((+_+)) 
昼から処方されたペンタサという薬(錠剤2個を朝・昼・夕食後に服用)を飲む。
 インターネットで調べてみると 大腸の粘膜に炎症が生じ潰瘍やびらんができ、下痢や粘血便が起こる病気。原因不明(免疫異常説が有力だが)で、根治できない難病の一つ。活動期(再燃期)と緩解(かんかい)期を繰り返し、重症化すれば大腸全部を切除するしかない。とあった。
食事療法の本を参考に、油脂と不溶性食物繊維と刺激物を避ける食事制限を始める。
ペンタサと食事内容の効果はすぐに出て、早朝の腹鳴りも弱くなり、排便が朝と夜の2回となって下痢便はあるが血便は無くなった。
 11月15日、立川病院内科を予約受診する。まだ時々下痢もあったので、ペンタサ1日6錠の他に整腸剤2錠(朝と夕食後1錠ずつ)を追加処方してもらった。(右写真の赤包みがペンタサで白包みが整腸剤)
11月末には便通が1日1回か無い日も、下痢は殆んど無く安定してきた。

 チューリップ・スイセンなどの春花壇作りや、冬ごもりの準備で山野草棚や鉢の移動をする。雨天日4000歩、晴天日は8000歩の動きで、体重55、5から57、0kg。腹筋やサイクル運動などの筋トレも続ける。
 12月5日、造園業者3名来て冬囲いする。囲いの中にも鉢を移動して植物の多くは休眠に入った。

 12月9日、新大病院整形外科外来を受診。堀田先生に大腸炎を報告すると、「いろんな病気が出てくるねえ(ビックリ)、ホームページは更新してますか?潰瘍性大腸炎も出て来ますね。
雪道は転ばないように気をつけて
歩いてね。」と話された。
 12月11日、初積雪。 13日、玄関前通路を初除雪(10cm位)、18日には55cmの積雪となった。
 12月13日、立川病院内科を予約受診。血液検査をして、異常のないことを確認する。
診察後にソーシャルウォーカーから、「特定疾患医療費公費補助の申請について」説明を受けた。
12月26日、夕方には68cmの積雪(津南は289cm湯沢237cm入広瀬235cmで12月の最高積雪量更新)となる。
 長岡の12月は寒く平均気温1、5℃(平年は4、1℃)で観測史上最低となった。
 12月31日、深夜の神明神社詣りを、3年ぶりで家族一緒に出来た事が幸いだった。
 2006年1月〜2月、気象庁の暖冬予報に反し、大雪となる。
平成18年豪雪-最高積雪量は2月5日の津南で416cmとなる)
 最高気温が長岡でも1月6日にー1、1℃、7日ー0、8℃と低く厳寒
昨年以上に足の小指側の霜焼けがひどく、厚い靴下とレッグウオーマー、ホッカイロを春まで使うことになった。
 1月8日、廂(ひさし)の雪下ろし、積雪量は100cmとまだ少な目だがドカ雪が来ると大変なので、12日には大屋根の雪下ろし(中央部は残して端から半分を落とす)をする。
 1月15日、廂下に置いてある越冬用のポリ池は凍結が続いて幼鯉は全滅、なぜか金魚はすべてが無事に生き延びた。
1月16日、屋根の雪下ろしが応えたのか、妻に持病の腰痛が出る。
今まで犬の散歩は朝も夕方も妻がやり、私は右脚の不安からリードは持たずに夕方の散歩について歩くだけであった。
この日から朝は妻が、夕方の犬散歩は私が一人でやるようにした。

 2月1日、タクシーを使って、市役所で住民票、税務署で納税証明書をもらい、保健所へ特定疾患(潰瘍性大腸炎)医療給付の申請に行く。3月に審査があり、4月3日に医療受給者証が郵送されてきた。以後、薬代金が全額補助され有難いことです。
長岡の寒さは2月中旬までで、積雪も120cm位で前年より少なく、下旬には自転車でホームセンターに行けるようになった。
東と南の道路脇に除雪ブルが積んでいった雪氷の壁を割って10日ほどで除雪する。
1-2月は、4000〜6000歩ほどの運動量で、体重56、5〜57、5kg。 また、大腸の調子も安定し毎日か1日おきに便通があるが、下痢は無くなった。

 3月末から鉢植えを雪囲いから棚上に出し、植え替え作業に大忙し。
 4月中旬までに、鉢植えのブルーベリー・木苺類の果樹や、ハナミズキ・ヤマボウシ・キンモクセイ・サルスベリなどの花木を20鉢位、草類30鉢程を庭に移植する。
 金魚は池に放した翌早朝に、カラスによって、オランダシシガシラが2匹捕食されてしまった。直ぐに池の周りにテグス糸を張るとカラスは寄り付かなくなった。
次々と或いは一斉に咲く季節の花々。写真撮影に多くの時間をかける。
 5月に入って、畑を新たに2畝作り野菜苗を植える。また、時々下痢気味の日があり、時に粘血便(大腸の粘膜組織と血液が混じった、梅干を潰したような便)も出るようになった。

 5月19日、立川病院で主治医の原先生により大腸バリウム検査をした。(私が内視鏡検査を嫌がったため?) 前日の夕食は病院から渡された特別食(レトルト食)だけにし、夜、下剤を飲んで1時過ぎから3回トイレに通って腹の中を空にする。
当日は9時50分から30分ほどの検査で、肛門からバリウムを入れ胃の検査と同様に身体を回転させ、体位を変えながらレントゲン撮影をする。
大腸に大きな変化は無く、内視鏡ほど鮮明には診れないようでした。

 冬の間に庭の松の木に巣箱をかけた(雪が多かったので取り付けができた)。巣箱は、20数年前に小学生だった長男と一緒に作ったもので、シジュウカラが産卵し雛が巣立った記念品です。
改築で環境が変わったこともあって、スズメが巣作りして5月末には無事巣立っていった。(右写真)

 6月9日、新大病院整形外科外来を受診。
右脚の手術から間もなく3年となり経過も順調なので、次回からは4か月おきに年3回の予定で、主に癌の肺への転移が無いかをチェックしようと堀田先生が話された。

 7月は長雨が続き、日照時間が特に少なく、梅雨明けは7月30日と遅くなった。

 8月は猛暑となって、発電量・電力消費量は過去最高となった。
我が家では柴わんこも不調で歩きたがらず、外耳炎を悪化させて投薬治療を受けることになった。
歩数計1日6000〜12000歩で、体重は56、5〜57、5kgとなり、便通は1日1回または無し、2回や下痢はない安定状態が続いた。
 8月15〜20日、5日間連続で35℃以上となり、最高気温は17日で38、4℃となった。

 8月21日、以前から具合が悪いのにガマンしていた歯の治療のため、近くの歯科医院に通院する。11月下旬まで計30回通い、歯周病が進んでいて、グラついている歯を2本抜いて、ブリッジ2か所(内1つは保険対象外)、入れ歯1か所を作る集中治療をした。

 11月7日、前夜からの強風で植木鉢の殆んどが倒れ霰も降った。
鉢はそのままで午後2時立川病院に検査入院した。翌8日最初の検査から1年後ということで大腸内視鏡検査を受ける。
前回と同様に眠前に下剤を飲むと、2時過ぎに固形の排便、4時頃下痢排便の直後に貧血?吐き気と冷や汗で気分が悪くなって倒れ、トイレ脇にある談話室の椅子に横たわる。
看護師の手当て受け30分ほどその場で寝る。
5時に部屋に戻って、腸管洗浄液・ニフレック2Lを飲む。6時半頃から黄色い水状便が4回出た。4回目の8時50分、透明に近い水便であることを看護師が確認し、OKが出たので前回のように浣腸はしないですんだ。その後4時間近く病室のベッドで休んで検査の連絡を待つ。
12時50分〜1時30分、主治医の原先生による大腸内視鏡検査を受ける。何故かカメラの挿入も今回はスムースに行った。
結果は潰瘍部分が狭くなって大腸の末端4cm位の所に限定され、状態が好転していた。

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 更に 肺結核の投薬治療 も 


 11月13日、癌の転移が無いか調べるために、大学病院でCT検査(コンピューター断層撮影法)を受けた。上半身だけ病衣に着替えて、10時40分頃からの25分位、レントゲン撮影で横断面輪切り像を描く検査である。
 11月24日、新大病院外来を受診する。整形外科で堀田先生から、「 CT検査の結果、癌の転移は認められないが、肺に影があるから、内科で詳しく調べたい 」と言われる。
 カルテを受け取って内科外来を受診する。
若い医師による予診を受けてから、第二内科(呼吸器)の鈴木栄一教授の診察を受ける。
肺結核の疑いがあるので詳しく調べたい」と胸と背中に聴診器を当てる。
特に異常はなく、咳や痰が出ないと話すと、痰が胃に入っているので「 胃液を調べ、血液検査をする。」と伝えられた。
その日採血室は混み、12時40分頃ようやく採血。自宅に帰ったのは午後3時過ぎとなり疲れた。
 11月28日、胃液採取のため、前夜9時以降飲食せずに、朝食は摂らずに早朝の高速バスに乗り、新潟大学病院第2内科外来を受診する。
診察室脇の治療室で、鼻から細い管を入れて胃液を採取したが、苦痛なことはなく短時間で終了した。

 11月30日、銀山造園から5人来て冬囲いをする。
リンゴ富士12個を収穫する。2週間前に収穫した洋ナシ11個と同様に、チョット小ぶりで見かけはイマイチだが味は立派なもので感激でした。
この秋は気温が高くて晴天が続き、我が家の果樹類や菜園のニガウリ・ナスが秋遅くまで収穫でき、まさに実りの季節でした。

 12月1日、新潟大学病院第2内科外来を受診。
血液検査・胃液検査とも異常はなく、結核菌も検出されなかった。
最終検査として気管支鏡検査をする事にし、その日時は後日係りからの電話を待つように言われた。

 12月7日、新潟大学医歯学総合病院、西病棟2階の光学医療診療部で気管支鏡検査を受ける。
午後1時に来るように前日電話連絡を受け、朝食はお粥一杯、昼食抜きで12時半には受付を通る。
当日は気管支鏡検査が特に多くて、最後になった私は光学内視鏡室の待合室で3時頃まで待たされる。
上半身を病衣に着替え、点滴をつけ、血圧を測り、口から肺までの局部麻酔をする。
何回も深呼吸を繰り返し気管内へ霧状の麻酔薬を送り込むのだが、これが結構大変でした。
検査台に仰向けになり、口から気管支鏡の管(胃カメラより少し小さい)を挿入する。
初めは特に苦痛が無かったのですが、組織や細胞の一部を採取されたり、洗浄されたようで、検査後半は激しい咳き込みが出て苦しくなった。
検査時間は50分位?で、4時20分頃に車椅子で休息ベッドまで運ばれ、点滴が終わるまで横になる。
 麻酔が完全に消えるまで飲食しないこと、2種類の薬(抗生剤と痰を切る薬)を1週間飲むこと、翌週15日の外来受診で結果が分かること等の説明を受け、5時30分病院を出た。
高速バスを使って長岡の自宅へ帰ったのは夜7時30分。お茶を少し飲み、軽い夕食を摂った後はソファーで眠ってしまい、翌日も体がだるかった。
 検査後の薬を服用していた1週間は、大腸の具合がおかしくなって便が1日2回の日が続いたり3回の日もあった。

 12月15日、新潟大学病院第二内科を予約受診する。
気管支鏡検査の結果、悪い菌は検出されなかった。再度胸部レントゲン撮影と検査のため採血する。
最終診断は、「 各種検査で菌は認められなかったが、3年前のCT画像と比べると明らかに肺の右上部の影が拡大している。 肺結核と思われるので、投薬治療をしたらどうか。 放置すると厄介なことになる可能性がある。」
(実は、私は小学校入学時から中学2年まで、肺結核要注意といわれ、体育、運動会などは見学させられた。入院せず薬も使った記憶は無く、自然治癒して痕が石灰化していると認識していた。)
検査で何の菌も出ないので安心していたところで、投薬治療に即答が出来なかった。
悪性骨腫瘍アダマンチノーマで診療を受けている整形外科の堀田先生に経過を報告し、次の外来予約の3月2日に対応を決めることとした。

1月には長岡で立川病院消化器内科の受診予約もあるので、診療を受けている潰瘍性大腸炎の治療との関係も相談したかった。
 帰りの高速バスの中、霧で遠景がボケる水田のあちこちで、白鳥の群れが落穂?を探しているのを見ながら、入院しないで済む内に投薬治療で根治を目指す方が良いと決意する。
 2007(平成19)年 1月16日、立川病院消化器内科を予約受診する。
新大病院第二内科での検査結果と肺結核投薬治療について話したところ、原先生から、2〜3日に1回使用する座薬(ペンタサ注腸薬左写真)を併用してみようと言われた。
薬局で渡された薬を見てビックリ、14個しかないのに量が大きく重い。
肛門から直接大腸に注入する。初め1〜2回はうまく行かなかったが間もなく慣れて、難なく使用できるようになり、2月末までに服用が終了した。
大腸には効果があったようで、下痢・軟便や粘血便は全く無くなり、毎日1回の排便が続くようになった。
 3月2日、新大病院外来を予約受診する。
整形外科で右脚のレントゲン撮影の結果(左正面と右側面)を見ると、移植骨の接合部・骨折部ともに完全に活着成長し、太くしっかりしてきた
もう大丈夫といわれ、内科治療に専念したいと堀田先生に話し、カルテを持参して第二内科を受診する。

 内科の主治医鈴木栄一教授の診察を受け、
 「2月一杯大腸炎の薬を一種類追加し、現在の大腸の調子はきわめて良好であること、
右脚の経過も良いので、しばらく(6ヶ月位?)は肺の治療に専念したいと思い、薬による治療をお願い」 しました。
放置して結核菌が排出される様になれば入院となり、「PET&GREEN」の世話が出来ず、妻にまた多大な迷惑をかけることにもなります。
また、私の免疫力が低下しており、早めに対処したほうが良いとも思いました。
診察の後、胸部レントゲン撮影と検査のために採血(採血ルームは混んで1時間待ち)し、CT検査の予約(最速で、4月4日)もしました。
 処方された3種類の結核菌を殺す薬(右写真)は、イスコチン錠100mg1日4錠、リファジンカプセル150mg1日3カプセル、エサンブトール錠250mg1日3錠で、毎日朝食後に計7錠と3カプセルを服用します。

昼近くから夕方までの尿がオレンジ色となり、異様な感じを持ちました。
 
2007.03.13. 追加 更新
 
 3月23日、4月4日(CT検査)、4月20日、5月18日、6月18日、6月15日、7月13日と
新潟大学医歯学総合病院
(病院名を改称)第二内科を外来受診。血液検査で肝臓等に副作用が無いかチェックし、聴診器による肺の診察を受け、体調に異常が無いことを確認して薬の処方箋を戴いた。

 半年が経過した8月24日にCT検査を受ける。8月31日の外来受診時に検査結果(CT画像の肺の影は薄くなってきたが、子供の頃の病巣の痕は残っている。)を踏まえて、3種類の薬を2種類(イスコチン錠とリファジンカプセル)に減らして、4錠3カプセルの投薬治療を継続することになった。
 10月26日受診。12月21日の受診時にCTの検査予約をし、翌年2月29日に決定した。薬は2種類で3月14日まで処方され、CTの結果によって以降の薬を1種類に減らすかどうかを判断することになった。
 この間、TVや新聞で多剤耐性結核菌の報道を見る。薬を使った以上は徹底的に菌を殺さないと大変なことになる。医師が慎重な対応をし、治療が長引くのはやむを得ないと思いました。

 2008(平成20)年 2月29日の胸部CT検査の結果を受けて、3月半ばからは薬を更に1種減らし、イスコチン錠4錠のみになりました。

6月6日内科外来受診。8月22日CT検査。その結果は29日の外来受診で、そろそろ投薬治療も終わりかなと期待したのですが、「右肺の結核病巣とは反対側の左肺に気になる影が新たに発見された。」
しばらく様子を見て、11月14日CT検査(左写真はこの日古町十字路のビルから望んだ大学病院)、21日に結果を伺うと、右肺の影は縮小しており、
「原因は不明だが、何かの炎症が起きたが治ってきているようだとの診断」であった。
その後も、肺結核治療薬1種4錠を毎日服用し、
2009(平成21)年2月13日の受診で、投薬治療を終わり経過観察に移ることとなった。

2年間に及ぶ投薬治療であったが、この間、薬による副作用は全く無かった。
経過を見るために、次回は5月にCT検査を予約した。
5月にCT検査と外来受診、10月に外来受診して、次のCT検査予約をする。
 新潟市が大雪に見舞われた直後の、
2010(平成22)年 
2月8日 (左写真は高速バス停、市役所前の東中通り、新潟では珍しい歩道の雪景色)、
新潟大学病院で最後の?胸部CT検査 を受ける。
2月12日、内科外来 を受診し、主治医の鈴木教授から
肺に微妙な影が出たり消えたりする場合があるので、今後も咳や痰などの異常が出たら、いつでも受診するように 」 との指導を受け、今回の肺結核治療の終了を伝えらました

 妻と2人で病院から古町十字路まで、まだ雪が残る市内を歩き、3年がかりで1つの病を乗り越えた安堵感の中、記念の買い物と少しだけ豪華な?昼食をいただきました。

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 潰瘍性大腸炎の治療経過 


 肺結核治療の間も、2〜3ヶ月に1度は立川病院・消化器内科を受診しました。
 2007年10月12日、3回目の大腸内視鏡検査1泊入院で行う。
就寝前に下剤ラキソベロン(液剤)と消化管蠕動促進薬ガスモチン(錠剤)を飲み、4時過ぎから約2時間かけて消化管洗浄剤ニフレック液を2リットル飲む。5時前から数回、排泄にトイレに通い、大腸内を綺麗にする。9時から20分位で内視鏡検査を受けました。
11月に外来で結果説明(主治医の原先生が転勤し、代わった高橋先生から)を受ける。
大腸の潰瘍が見られなくなっていること、ポリープを1個切除したが、正常細胞であり何の問題も無いことが分かった。ペンタサの効果と思われるので、このままの薬投与を続けよう。」ということであった。
 ( 治らない病とされてきた潰瘍性大腸炎ですが、薬を使わず2年以上症状が出なくなり、治った体験を書物で拝見しました。もう少し様子を見て、私も挑戦できるかな〜・・・ 。)

 2008年、潰瘍性大腸炎は再燃せずに緩解期(かんかいき、腹痛・下痢や粘血便の症状が出ない状態)を保った状態が続いているので、ほぼ3ヶ月に1度内科外来で診察を受けて、ペンタサ薬1日6錠3か月分の処方箋をいただいた。(若い高橋先生の異動で、主治医がベテランの飯利先生に代わる)

  不治の病とされる難病のうち、「原因不明で治療が極めて困難で、経済的・精神的な負担が大、症例が少なくて全国的規模での研究が必要な疾患」を「特定疾患」と定義し、130疾患あります。その内45疾患の医療費は公費負担助成の対象となっています。
潰瘍性大腸炎は、その45疾患の1つに指定されており、
申請により「特定疾患医療受給者証」の交付を受け、治療費の一部が助成されています。
所得によって、私の場合は月額自己負担限度額が外来2,750円、入院5,500円となります。
 毎年8月末までに継続交付の申請をする必要があります。申請書の他に市役所で住民票、税務署で納税証明書を発行してもらい、主治医から治療の経過と最近の検査データを記した「臨床調査個人票」を書いていただき、臨床調査個人票の研究利用についての同意書をつけて計5点の必要書類を保健所に提出します。

 申請前の2009年6月25日に、立川総合病院消化器内科(5名の医師で構成)で詳しい血液検査と4回目の大腸内視鏡検査を受けました。 血液検査の結果は異常なし。
 大腸内視鏡検査は、前回まで一泊入院で実施したのですが、今回は自宅で、夜9時に下剤ラキソベロンをコップ1杯の水で飲んで就寝、朝5時から腸管洗浄剤リフレック液を2リットルを約2時間かけて飲み、6時から8時過ぎまでに6回程排泄し、固形物のない透明に近い状態になったことを確認します。
近くなので自転車で病院へ行き、9時20分頃から50分頃まで(実質20分位?)内視鏡検査を受けました。
自分でも画像を見ていますが、粘膜は綺麗で毛細血管がよく映っています。
炎症等は見られずポリープも無し、かつて炎症があった2箇所の組織を採取して生検するという説明でした。

 二週間後の外来受診で主治医から聞いた生検(顕微鏡による組織の精密検査)の結果は、
びらん・膿瘍・異形成などは無し、びまん性炎症性細胞浸潤あり、杯細胞の減少または消失あり、腺の配列異常あり 」というものでした。
この1年間も下痢や腹痛は全くないのですが、ペンタサ薬の効果により緩解(かんかい、症状が出ない状態)状態が続いているので、現状を維持していくことが大切、(=ペンタサの服用を続ける)ということでした。
症状が無く、内視鏡では異常が無いように見える私の大腸は、組織を調べると正常とはいえない部分があり、
 いつ再燃し、活動期に入って進行・悪化するかもしれない、 根治は出来ない病、それが潰瘍性大腸炎であり特定疾患の所以です。

 2010年は、2ヶ月に1度受診して、処方箋によりペンタサを服用(250mg6錠から500mg3錠に変わったが実質は同じ)し、大腸の調子は極めて順調に推移しています。

 4月、庭の松の木に掛けた巣箱に、シジュウカラが巣作りして産卵・子育てをしました。
(4年前にスズメが利用した巣箱ですが、薄板を貼って出入り口の穴径を2,8ミリに縮小しました)  
巣立ち(左写真)する5月末まで、餌をねだる雛の鳴き声で庭が賑やかでした。

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 アダマンチノーマの経過 と 他の体調変化など 


 2003年に、悪性骨腫瘍・アダマンチノーマの手術をした右脚の経過も順調です。
2007年までは3ヶ月に1度、2008年からは半年に1度3月と9月に、新潟大学医歯学総合病院・整形外科を受診してレントゲン撮影、堀田先生による画像チェックと診察を受けてきました。
 2009年の冬は足の冷えを強く感じるようになり、
靴下の重ね履きレッグウオーマー  も使用しています。
左脚(移植のために腓骨を切除した)の人差指と中指にはシモヤケ ができ、右脚(脛骨を切除して左腓骨を移植、足首関節無し)の親指が外反母指 して、歩いた後に少し痛みが出るようになりました。
 2009年3月13日、新潟大学医歯学総合病院・整形外科を受診。
主治医の堀田先生に経過(脚の手術後に罹病した潰瘍性大腸炎と肺結核治療について)を報告し、右脚のレントゲン結果も含めて、「一つ一つ経過が良い」と安心していただきました。

 3月19日、長岡市の立川総合病院・で消化器内科を予約受診した後、初めて耳鼻科も受診しました。
一昨年(2007年)12月頃から、左耳が「 耳鳴り 」する状態になっていたのですが、市販の薬やサプリメントを試みましたが効果が無く止めました。つぼ刺激や音楽療法などは現在も続けていますが効果のほどは?。
昼間は殆んど意識することなく、夜、床に着くとジーとセミがなくような高音がします。
しかし眠れないことも寝つきが悪いこともありません。

聴力検査
の結果、左右ともに低音域の聴力低下が認められるが、耳鳴りの治療法は確立されてなく、生活に支障が無ければこのまま様子を見ましょうということでした。

 立川総合病院・眼科を受診しました。
半年前の昨秋(2008年)9月末、就寝前に突然、顔を横に振ると右眼の右端に、縦にピカッと光の線を強く感じました。
数日しても光線が細くはなったが消えないので、もしかして網膜剥離かと思ったのです。
9月30日の初診はまず視力検査、そのあと瞳を開く薬の点眼を2度受けて、30分後に強いライトを当てて眼球を回しながら詳しく内部を診ていただきました。加齢に伴う濁りがあり、白内障が始まっているが、網膜に異常は無く、眼科としての治療は必要無いといわれ、半年後の受診予約をしました。

 2009年3月31日は様子を見るための2回目の受診ですが、前回と同様の診察で、白内障は進んでいないので、薬の使用はせず、次も半年後の診察を予約しました。


 2010(平成22)年、3月には初孫の誕生で喜び、10月には弟を亡くし悲しむ、悲喜こもごもの中で大阪に2回、千葉に2回、罹病後初めての遠出をしました。 記録的な猛暑の夏でした。

 9月10日
大学病院・整形外科を受診。アダマンチノーマ手術から、すでに7年2ヶ月が経過 しました。新しい中央診療棟の1階にある放射線部で、胸部と脚部のレントゲン撮影 をした後、堀田先生の診察を受けました。
 「 レントゲン写真も脚部は全く異常が無いので、次の半年後には胸部レントゲンによる肺への転移のみチェックする 」 ことになりました。
胸部画像は専門医師の診断を経て、2週間後に異常なしの結果を知らされました。

 7年間、長岡から新潟へは高速バスで通い、市役所前で降ります。
新潟市役所(左)は私が学生の頃は県庁が在った所で、巨大な松の古木がその名残です。
大学病院・外来玄関への道を歩きます(中、歩いているのは毎回付き添ってきてくれた妻です)。
右は入院病棟を東中通りから見上げたものです



 診療の後には、近くの白山神社に御参りして、古町バス停まで歩くこ とが多く
 ありました。
 の春には目出度い結婚式の列に出会ったり、
 池の噴水や蓮池の花、の紅葉等々、境内の季節の移ろいに、
 病んだ心身が、どれだけ癒されたことか。



 2011(平成23)年
 1月は寒さ厳しく大雪となり、屋根の雪下ろしもしました。

 毎朝起床前に必ずベッドでやることがあります。大学病院でリハビリを受けたときから、手製の膝枕を使っての枕押しから始まり、足と手の指、肘、肩、腕、背骨のストレッチ、手指の爪揉み、耳や目のツボ刺激、上体の前側屈、一部のヨガポーズなど、およそ40分位です。

 春からは園芸作業や畑仕事で身体を鍛えています。残念ながら足首関節が無い右脚は、脹脛(フクラハギ)から腿(モモ)・尻にかけて細ったままで筋肉が付きません。ズボンの中の右脚と左脚は別人の如くです。

 加齢に伴って、行動が緩慢になり、疲れやすく集中力が続かなくなりましたが、春から秋は多くの植物を育て、さまざまな動物が訪れる生物多様性に満ちた庭造りを楽しんでいます。

 アダマンチノーマや、潰瘍性大腸炎、肺結核との闘病の過程で、多くの皆様との出会いがありました。 その体験を通して多くのことを学び・考え、また反省させられました。

 これからも、何が起こっても不思議ではない高齢者世代となった今は、むしろ、「病と共存」しながらの人生を、自分らしく生き抜きたいと念じています。
2011、02,03、 節分の日  追加更新

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